【連載】看護学原論に立ち戻って考える!KOMIケアで学ぶ看護の観察と看護記録

第4回 看護にとって「病気」とは?―看護のものさし②⽣命体に害となる条件・状況を作らない援助(2)

執筆 金井 一薫(かない ひとえ)

NPO法人ナイチンゲールKOMIケア学会 理事長/東京有明医療大学 名誉教授

そもそも「看護」って何だろう?何をすれば看護といえるのだろう?本連載では、看護とはどのようなことであり、どのような視点で患者を観察し、また記録するのかについて、ナイチンゲールに学びながら解説します。


本連載の第3回では、「人間が病気になった時に、いちばん辛いことは何か?」を、患者の立場で考えることが重要で、そこに「看護の役割」があるというお話をしました。

今回は、さらに患者の苦痛を取り除くための「自然の回復過程が順調に進む方法」を紹介しましょう。

自然が患者に働きかける最もよい状態とは?

適切で行き届いた看護は、日常の不自由からくる患者の苦痛を最小限に抑えることができます。それにより苦痛による生命力の消耗は軽減され自然の回復過程は妨げられることなく順調に進みます。

そこに看護の価値意義を認めることができます。

これを反対に言えば、「病気になるということは、、症状や病状からくる苦しみにも増して、“日常生活の制限や不自由がもたらす苦痛”によって、著しく強められる(増強・強化される)と言えるでしょう。

ナイチンゲールは、患者が本当に良い看護(適切で行き届いた看護)を提供された場合、病気は「必ずしも苦痛をともなうものではない」とまで述べ、その反論に対して次の言葉を残しています。

もしわれわれがこう尋ねられたとしたらどうであろう……『こんな病気が回復過程といえるのか?』『このような病気に苦痛がともなわないことがありうるのか?』『どういう世話をすれば、こういう患者にあの痛みこの苦しみを起こさせないですむのか?』……これらに対し、私は知らないといちおう答えておく。しかし、その病気による症状を取り除くのではなく、私が述べた自然の回復過程をうまくすすめる要素のひとつまたは全部が欠けたために患者に現れる痛みや苦しみを、もしあなた方がすべて取り除いてしまったならば、そのときこそ、その病気から切り離せない症状とか苦痛とかがどんなものであるかが、お互いに納得できるであろう

F.ナイチンゲール著(湯槇ます、薄井坦子ほか訳)『看護覚え書』

つまり看護とは「患者の日常生活のあり方のすべてを、患者の生命力の消耗を最小にするように整えていくことである」そして、そのように状態を整えていった時、それが「自然が患者に働きかけるに最も良い状態を作る」ことになるということなのです。

苦痛に対処する医師の役割と看護師の役割

医師は、病気そのものがもたらす苦痛や辛さに直接対処しようとする働きをし、看護師は日常生活の不自由がもたらす苦痛や辛さに対処しようと働くわけですが、それは自然の回復過程を援助するという共通の目標を達成するという点で、医師の働きをも⼤いに助けることになります。

この視点こそが「看護の原点」と言えるのです。その気づきを与えたナイチンゲールは「看護の定義」を次のように措定しています。

看護がなすべきこと、それは自然が患者に働きかけるに最も良い状態に患者をおくことである

F.ナイチンゲール著(湯槇ます、薄井坦子ほか訳)『看護覚え書』

意訳すれば「看護とは、⾃然治癒⼒や回復のシステムが体内で発動しやすいように生活を整えること」と言い換えることができるでしょう。看護師の仕事はこの「自然の回復のシステム」つまりは「生命の法則」に力を貸す仕事です。そのために「最も良い状態」「最良の条件・状況」を生活過程の中に創り出すことなのです。

医師と看護師、両者の役割が「自然がつくり出す回復過程」に力を貸し、患者の生命力がアップするように導く、それこそが私たち医療者のあり方であることも見えてきますね。

いかがでしたか。次回は“看護のものさし”から「生命力の消耗を最小にする援助」について具体的に解説します。

ナイチンゲールKOMIケア学会
同学会は、理事長である金井一薫がナイチンゲール思想を土台にして構築した「KOMIケア理論」により、現代の保健医療福祉の領域において21世紀型の実践を形作り、少子高齢社会を支える人材の育成に寄与することを目指します。

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