• 公開日: 2014/1/6
  • 更新日: 2020/3/26

【連載】Dr.パクのドタバタ離島医療奮闘記

第8回 島で死ぬということ―医療人にとっての「グリーフケア」

看護師は夜勤のラウンドや訪問看護など、患者さんの健康状態を確認する機会が多くありますが、患者状態を適切に判断するためには、プライマリ・ケアの技術が大いに役立ちます。

本連載では、拠点病院などによる後方支援を期待できない土地で、医療・検査機器などもない患者宅で医療を提供する「へき地医療」を通じ、“究極のプライマリ・ケア”と地域医療の実際を解説します。


病院は“死ぬところ”!?

例えば「家で死ぬこと」、もう少し別の言い方にすると、「住み慣れた環境で死ぬこと」を望まない人はほとんどいません。

「死に場所」を強要することは間違っていますが、しかし状況が、これまでの来し方、生きて来た経緯から、許されるならば、“愛する人に囲まれた死”、“住み慣れた環境での死”を望む人は多いはずです。

もともと沖縄県の離島は風葬の文化を持つ島が多いです。風葬とは、(島によって多少の差異はあるようですが)死後火葬せずにそのまま墓にいれ、7年後に洗骨(遺骨を洗い骨だけにする)して、再び墓に入れるという死の慣習です。

もともと風葬への宗教的信仰がある中で、現在沖縄は日本の一部となり、火葬場が設置され、制度上も風葬の実施はかなり難しいようです。しかし沖縄県の小規模離島では火葬場がないところも多く、元来の風葬を希望される高齢者が多いのも事実です。

波照間島にも火葬場はなく、(島で亡くなっても中核離島へ運び火葬することはできましたが)「島を出て死ぬこと」はすなわち「必ず火葬されること」を意味しました。信じられないかもしれないですが、「焼かれたくない」と言って島を出たがらない人もいたのです。

患者さんの人生や価値観を知る

なんでそこまで島を出たがらないんだ、入院したがらないんだ、と思われるかもしれません。かつて私とは別の島医者が医学的判断のもと必要だと認め、治療をするために石垣島に搬送しようとしたら、泣きながらしがみついて「死にたくない」と言った人の話を聞いたことがあります。

医療者として働いていると病院は当然病気を治すところで、すなわち病める人々が幸せになっていくところだと信じたいところです。しかしその高齢のおばぁからすれば、病院に入院することは死に近づくことを意味したのかもしれません。(←こういった“現場感覚”は重要でしょう)

「死ぬまで何があっても島を離れない」というオジィやオバァの決断に、赴任当初は肩がずーんとおもくなる感じでした。重みは最後まで変わりませんでしたが、その内容や私の受け取り方はずいぶん変わりました。

はじめはその疾患の多種多様な急変、重篤な疾患を自分が見切らなければいけないという医師としての重圧を感じていました。脳出血起こしたら?心筋梗塞なら?敗血症なら?骨折?嘔吐?吐血?いろんな想定をして備えようとしました。

しかし、島で暮らし、それぞれの人生を知り、想いをはせるなかで、その病気以上に、だんだん一人一人の人生の重みをずっしり感じるようになっていったのです。

どんなにドラマで感動したり、映画で涙を流したって、たった一人の人生に遠く及びません。とても数時間、数十時間で語れるものではないのです。皆さんの人生だってそうでしょう。誰にも語っていない青春や親兄弟とのエピソードがあったり、人生最高の瞬間もあれば、悔やみきれない後悔があったり。

そんな人生の最後(やその近く)の一点で関わる責任の重さを感じたのでした。

看取りと「グリーフケア」

看取りに関わる仕事をしている人からすればひよっこの私ですが、後悔のない看取りなんてないのではないか、と思ってしまいます。 だって究極の「とりかえしがつかない」ことなんですから。

波照間島のあるおばぁは亡くなる前日診療所に来て、帰り際に「大丈夫ですか?きついことないですか?」と聞く私に、「何もない」と消え入るような声でにこっと笑っていたのを今も思い出します。まるで死ぬようなそぶりも見せず、静かに翌朝逝ったその人に私はベストを尽くしていただろうか。

もし尽くしていたとしても、ベストだったとはいえないでしょう。ベストな人生がないように。

そんな離島医療はストレスばっかりでやってられないって?

確かに島での医療は軽々しいものではありません。島医者にとって島は無医村ですが、しかし、困ったときは島民が島医者を癒してくれるのです。

夕暮れの海の写真

「グリーフケア」とは通常死別などの喪失に伴い家族などの近い人が受ける悲嘆を癒すことを指します。

それまでも私は医師として看取りの際に気持ちが落ち込むことはありましたが、島医者としての死別はなにか特別な、胸をかきむしられるような感情になりました。

家族ではないが、「他人である患者」がなくなったのではない、いつまでも反芻する悲しみ。医師であり知り合いでもある自分と患者の思い出や関係性がそうさせたのだと思います。

そしてそういった時、振り返ってみて、私は患者の家族との思い出話をすることで「グリーフケア」されていたと感じるのです。 飼っていたヤギの散歩中に、さとうきび畑をランニングしているときに、家族と会えば、時に涙しながら、おばぁの思い出話をするのです。

私は洗いざらい「こうすればよかったですか?」とか「こういうつもりだった」ということも話していたように思います。医師として正しいことかわかりません。ただ医師と患者家族という関係性を超え、時に癒し、ときに癒されることで、私にも、その家族にも人生に新しい1ページ分の記録を書きとめる作業だったのかもしれません。

人間は皆死んでしまうけれど

「人間の死亡率は100%」という言葉を聞いたことがあります。

どうせ皆死んでしまうのに、私たちはなにをやっているんだろう。

犬を飼ったって、本を読んだって、家を建てたって、いずれ私はいなくなる。患者を助けたっていずれ死んでしまう。それでも私たちの行っていることは意味があるんだろうか?

ヴィクトール・フランクルは夜と霧などの著書で知られ、アウシュビッツの強制収容所にいた経験を持つ精神科医ですが、彼は終生「生きていることには意味がある」という信念を主張し続けました。

その本当の答えを私は知りませんが、それでも「人生は無意味だ」なんて口が裂けても言えない、そう実感させてくれた島医者生活でした。

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